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【説 明】 青函トンネル開通の翌1989年7月21日、大阪~札幌間:約1500kmを結ぶJR西日本の看板列車として華々しくデビューした臨時寝台特別急行“トワイライトエクスプレス”。 運行開始当初は旅行会社が企画したツアー客専用の列車でしたが、その人気振りから第2編成が落成した同年12月以降は臨時列車扱いとなり、それまでの週2往復体制から週4往復体制で運転されるようになります。 また、その外観や車内はそれまでの“ブルートレイン”のイメージを完全に払拭した物とされ、背面展望が最大の売りである1号車1番のスイートルームは、誰もが一度は乗ってみたいと思う憧れの的でした。 しかし、“たけき者もつひには滅びぬ”とはよく言ったもので、登場から25年(種車時代から換算すると約40年)に渡る過酷な運用は、機関車・客車の双方に相当なダメージを与えており、北海道新幹線開業準備に伴う青函トンネル内の昇圧工事や、途中経路となる北陸本線の第三セクター化に併せ、遂に2015年3月12日の運転を最後に惜しまれつつも廃止となってしまいます。 そんな、現在の“四季島”や“ななつ星in九州”等、クルーズトレインの原点ともなった同列車のヘッドマークには、“黄昏の穏やかな日本海に幸せをもたらす天使(列車を意味する)”が描かれており、車体の緑と鮮やかなピンクがより一層の高級感を醸し出していました。 当該商品は、前回出品した上記の物とはデザインや造り・色合いが全て異なっており、材質は通常の鉄製ではなくブリキが使用されている他、ほうき星が貼り文字である点や下のさざ波の形状も右に少しずれている事等から、1989年3月に鷹取工場で試作品として作られJR北海道へ初めて納品された物だと特定出来ます。 残念ながら、ブリキには塗装が剥がれやすい性質がある為、北海道の過酷な使用環境下では僅か1年余りしか持ちませんでしたが、その後も空知運転所が廃止となるまでの間は倉庫で大切に保管されていた逸品です。 初めてこのヘッドマークを北斗星色のDD51に掲げた時、誰よりも早くその姿を目にした係員は一体何を思ったのでしょう…。 |
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【説 明】 |
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【説 明】 1965年3月1日、名古屋~東和歌山間を関西本線経由で結ぶ気動車特急として登場した“あすか”。 時を同じくして運転を開始した“くろしお”の返却・送り込みも兼ねていた為、車両は食堂車・グリーン車付きのキハ82が充当されていましたが、その豪華さとは裏腹に天王寺を通らない運行ルートが仇となり、運転開始当初は営業していた食堂車も半年後には休止される程の閑散振りでした。 そして、僅か2年半後の1967年10月1日、関西本線史上最初で最後の定期特急はあっけない幕切れを迎えてしまいます。 今宵、そんな悲運の列車として名高い“あすか”のヘッドマークを、遂にジャパレがお届け出来る運びとなりました。 現存枚数は僅か3枚しかないと言われている中、その内の1枚をまさか取扱い出来る日が来るとは夢にも思っておらず、これが弊社の店の前を走っていた特急の前面に掲げられていたのかと思うと、“ジャパレの15周年を記念して、縁あって帰って来てくれたんだなぁ…。”とついつい物思いに耽ってしまいます。 また、パーニのヘッドマークとしては唯一列車名に漢字が併記されており、その文字の色は“と き”や“ひたち”の様な朱色3号ではなく、列車名と同じ青15号となっています。 あえて多くは語りません。 ただ、この機会を逃すと二度と手に入らないと言っても過言ではない、これぞまさに幻の逸品です!! |
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【説 明】 1961年10月1日、それまで京都~博多間を結んでいた客車特急“かもめ”が、京都~長崎・宮崎間の気動車特急として装いを新たに再登場した“かもめ”。 エンジン音を轟かせながら堂々の14両編成で山陽本線を疾走する姿は、当時のファンのみならず一般利用者からも羨望の眼差しで見られ、北陸の“白 鳥”や山陰の“まつかぜ”達と肩を並べながら、国鉄を代表する特急列車としての威厳と風格を際限なく醸し出していました。 これは、そんな同列車が1975年3月10日の山陽新幹線:博多開業に伴い廃止されるまでの間、キハ82の先頭に掲げられていた逸品です。 裏面には、現役時代に幾度となく煤汚れを拭き取った跡が見受けられ、また“かもめ”の文字色が青15号である事からも、当該商品が運行開始当初から向日町運転所で長年大切に扱われて来た事を物語っています。 朝のラッシュで騒々しい京都駅。8:00ちょうどの発車に向けて、食堂車内では都ホテルのスタッフ達が着々と営業の支度を整えていく…。 そんな光景をホームで見ながら、“いつか、かもめの食堂車でポークカツレツ定食を食べるぞ!”と心に誓った少年も、今では立派な大人になっている事でしょう。 あなたの青春の1ページ、取り戻してはみませんか? |
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【説 明】 1960年代初頭、それまで道内初の特急列車として函館~釧路間を結んでいた“おおぞら”は、“はつかり”や“白 鳥”を使って本州から渡道する乗客を一手に担っており、後の“おおとり”・“北 斗”新設も空しく、その輸送力は限界を迎えていました。 そんな状況を打破すべく、1967年3月1日のダイヤ改正から函館~旭川間で運転を開始した“北 海”。 元来、札幌へと向かう優等列車は千歳線経由が通例となっていましたが、当列車は函館本線を走破する唯一の特急として設定された為、それまで本線とは名ばかりだった小樽方面の利用者からは、非常に重宝される存在でした。 当該商品は、そんな同列車が登場した直後の1960年代後半頃に使用されていた逸品です。 その証拠に、北海道のキハ82用ヘッドの特徴とも言うべき下部の爪が、まだ図面が変更される前の本州仕様を現場で改良した形状となっている他、“北 海”のヘッドマークは初期の物と後期の物で文字の大きさが異なっており、後期は若干“海”の文字が大きくなっている点が挙げられます。 水色のゴムパッキンを含め、全てが当時のままの組み合わせで残っているというのは、ある種の奇跡と言っても良いのかもしれません。 “お待たせを致しました。4番乗り場の旭川行:特別急行北海号、発車を致しまーす。次の停車駅は長万部ー、長万部です。” 朝焼けの空の下、DD13がレールを軋ませながら入れ換えをしている傍らで、静かに発車の時を待つ赤とクリームの長大編成。 やがて、約4時間の船旅を終え青函連絡船からぞろぞろと降り立った旅人達が、眠い目を擦りながら我先にと足早に吸い込まれて行くと、ファーンと乾いた汽笛が構内に響き渡る…。 出来る事なら、あの日・あの時に返りたい!! このヘッドマークを手に取ると、ふとそんな想いで胸がいっぱいになってしまいます。 |
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【説 明】 1962年6月10日、国鉄の予てより悲願だった北陸トンネル開通に伴い、大阪~金沢間で運転を開始した“越 前”。 当時、客車列車が主流だった北陸本線に気動車急行として颯爽と登場した同列車は、その運行時間帯からビジネス客にとても重宝がられ、平日は連日ほぼ満席の状態だったと聞きます。 しかし、翌年4月に迎えた金沢電化開業を機に敦賀第二機関区の471系がいち早く導入されると、時を同じくして列車名もそれまでの“越 前”が“加 賀”へ、“加 賀”が“立 山”へとそれぞれ改められ、“越 前”の名前は僅か10ヶ月余りで敦賀~金沢間に新設された電車準急へと受け継がれる事となります。 当該商品は、そんな後の北陸優等史を語る上では欠かす事の出来ない名列車のヘッドマークです。 福井県の名産:梅をあしらったイラストは、立体感を出す為非常に手の込んだ印刷技法が施されており、当時の職人の力の入れ具合すらも窺い知る事が出来ます。 とある建屋から、他のヘッドマーク達と共に半世紀振りに日の目を見る事となった逸品を、どうぞあなたのコレクションへと加えてやって下さい。 |
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【説 明】 1967年4月から、大阪~小浜間を北陸本線経由で結ぶ臨時急行として、毎年春と秋の行楽シーズンに運転されていた“わかさ観光”。 その後、1972年10月からは新たに福知山線経由も設定される事となり、米原回りの際には敦賀から“ゆのくに53号(後に51号)”と、福知山周りの際には大阪~西舞鶴間で“丹波1号・4号”とそれぞれ併結する運行形態が採用されていました。 また、1969年度に至っては大阪→敦賀→小浜→西舞鶴→大阪の一筆書きで運転された事もあり、列車自体は少しマイナーな存在でしたが、その運行ルートは当時ファンの間でも非常に話題になったと言われています。 当該商品は、そんな同列車が登場してから僅か2~3年の間しか掲げられる事のなかった、幻のヘッドマークです。 現存枚数2枚の内の1枚は、JR民営化直後の向日町運転所一般公開時に抽選で販売され、残る1枚は長年行方不明となっていましたが、この度1974年5月の廃止から約40年振りに日の目を見る運びとなりました。 山の緑色と海の青色が周囲にあしらわれたシンプルなデザインが、何処となくのどかだった頃の国鉄を象徴している…。 私には、そんな気がしてなりません。 |
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【説 明】 1964年10月1日。東京オリンピック開催を前に東海道新幹線が開業した記念すべきその日、かねてより東京~広島間で活躍していた特急が、新大阪~博多間を結ぶ電車特急として生まれ変わり登場した“つばめ”。 翌年には運転区間が名古屋~熊本間へと延長され、九州方面へ向かう新幹線連絡特急としての大役を担った同列車は、まさに渡り鳥の如く片道約900kmの鉄路を日々駆け抜けていました。 しかし、8年後の山陽新幹線:岡山開業を機に徐々にその栄光も陰りを見せ始め、晩年は終着駅こそ西鹿児島まで足を延ばしたものの始発駅も岡山へ変更となり、西へ西へと追いやられてしまいます。 そして、遂に1975年3月10日の山陽新幹線全線開業と共にその使命を全うし、以後JR九州の特急として復活するまでの間、客車特急時代から受け継がれて来た伝統ある“つばめ”の名は、鉄道史から一旦消える事となりました。 当該商品は、そんな名門列車の先頭を飾っていた由緒ある逸品で、その文字の色や書体等から、向日町運転所の485系が運用に就いていた1972年3月以降の物だと特定出来ます。 また、今回特別に出品して下さったOBの方曰く、当時同運転所では度重なる盗難や破損でヘッドマーク不足が深刻化しており、突貫で作られた書き文字仕様や幕式の物がその殆どを占めていた中、オリジナルでここまで状態の良い物は数少なかったそうです。 退職後は長年納屋の奥に保管されていたそうですが、この度弊社へのお祝いにとお取扱いさせて頂ける運びとなりました。 国鉄黄金時代の空気をたっぷりと吸い込んだファン垂涎のボンネットマークを、ジャパレ起業15周年記念の第1弾としてお届け致します。 こんなチャンスは絶対にございませんので、皆様どうぞお見逃しなく!! |
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【説 明】 1961年10月1日のダイヤ改正で、大阪~青森・上野間を結ぶ気動車特急として登場した“白 鳥”。 運行開始当初は、途中の直江津で青森編成と上野編成を切り離す(連結する)という多層建て方式が採用されていましたが、4年後の1965年10月1日に上野編成を“はくたか”へと独立させると、以後2001年3月3日に“雷 鳥”・“北 越”・“いなほ”へと3分割されるまでの40年間、約1040kmの日本最長距離を結ぶ在来線昼行特急として走り続けました。 当該商品は、そんな“白 鳥”が上沼垂運転所の485系で運用され始めた、1986年11月1日以降に使用されていた物で、白地の箇所が裏板の透かしではなく印刷されているのが特徴です。 雪が深々と降り積もる早朝の青森駅。“はまなす”を降りると、そこにはいつも赤とクリームを身に纏った車体が僕らを待っていてくれました…。荷物を座席へ置くと、発車までの小一時間を使ってホームのそば屋で腹ごしらえ。あの時の月見そば、本当に美味しかったなぁ~!! そんな、時代の波に呑まれ失われつつある旅の醍醐味や、生涯忘れる事の出来ない青春の思い出を、このヘッドマークを通して少しでも思い出して頂ければと思います。 |
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【説 明】 1964年12月25日、名古屋~富山間で運転を開始した“しらさぎ”。 大阪~富山間の“雷鳥”と共に、485系が初めて導入された記念すべき列車として知られており、以降現在に至るまで、米原・名古屋での東海道新幹線から北陸方面への接続列車として活躍し続けています。 当該商品は、そんな“しらさぎ”が金沢総合車両所の489系で運行する際に使用されていた物で、2003年7月19日に現行の683系へと車両が置き換えられるまでの間、シンボルマークと共にボンネットの先端を華々しく飾っていました。 また“しらさぎ”のヘッドマークには、文字が緑色の“アオサギ”や白色の“シロサギ”・青地の色が濃い“クロサギ”等、印刷ミスも含めると種類がいくつか存在しますが、これはその中でも最もメジャーな図面通りの仕様となっており、数あるボンネット用ヘッドマークの中でも人気が高い絵柄のひとつとして有名です。 車体色のクリームとよく合っていた北陸所縁の逸品を、是非あなたのお部屋に飾ってみては如何でしょうか? |
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【説 明】 1972年3月15日、それまで金沢~上野間を信越本線経由で結んでいた急行が、特急へと格上げされ登場した“白 山”。 長野新幹線開業に伴い廃止となった1997年9月30日までの25年間、“峠のシェルパ”ことロクサンと共に幾万回もヨコカルを越えた同列車は、当時東京と北陸を最短距離で移動出来る交通手段として、ファンの間では勿論一般の利用客からも非常に人気が高かった事で知られています。 そんな“白 山”のヘッドマークには、クロユリの色がピンク色・紫色・水色・黒色の計4種類存在し、中でも水色の仕様は黒色のそれと並んで非常に枚数が少なく、また裏面に付着したボンネットカバーの赤い塗料や“金沢運転所”の裏書き等から、当該商品は489系がまだ白山色へと塗り替えられる以前より使用されていた物だと特定出来ます。 “かまめーーーし!かまめし!峠のかまめしは如何ですかー?!” 列車のドアが開くと、各車両から一斉に売り子目掛けて走り寄る乗客達。その傍らでは、係員達が素早く連結・解放作業をこなし、静かだったホームにはロクサンの甲高いブロアー音と汽笛だけがこだまする。 そんな横川駅ならではの光景も、過去の物となってからもうすぐ20年が経とうとしています。 カメラと三脚を両手に、熊ノ平やめがね橋・横川駅に入り浸っていたあの頃…。もしかしたら、あなたもこのヘッドマークを目にしていたかもしれませんね? |
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【説 明】 佐世保線が電化開業した1976年7月1日、それまで小倉・博多~佐世保間を結んでいた急行“弓 張”が、特急へと格上げされ登場した“みどり”。 運行開始から約10年もの間、鹿児島本線内:肥前山口以東で“かもめ”との併結運転を行っていた同列車は、当時全国で唯一485系同士の連結・解放作業を見る事が出来る列車として、九州のみならず全国の鉄道ファンからひと際人気の高い存在でした。 そんな名列車の先頭に掲げられていた当該商品は、ボンネット用ヘッドマークにイラストが導入された1982年11月から、“みどり”専用の485系に“RED EXPRESS”へのリニューアル改造が施された1990年10月頃まで、約8年もの間使われ続けた逸品です。 それを物語るかの如く、裏面には車両と共に小倉工場へと送られたヘッドマークによく見受けられる、塗装工程時に付着したクリーム色がしっかりと残っており、押さえ板の材質や腐食具合等から、枠自体はクロ481がまだ“ひばり”で活躍していた仙台運転所時代からの物と思われます。 また、長年沿線で追いかけていた方はご存じでしょうが、併解結作業の関係で佐世保寄りにボンネット型車両が連結される事は絶対になかった為、“有 明”や“にちりん”等と比べるとその現存枚数は約半分程しかありませんでした。 初めてヘッドマークを持つ方は勿論、九州特急の他のヘッドマークをお持ちの方は是非並べて飾ってみては如何でしょう。 |
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【説 明】 1961年3月1日より、日光と伊東の2大観光地を結ぶ不定期準急として登場した“湘南日光”。 そしてその補完的役割を担うべく、時を同じくして東京~伊東間に登場した“臨時いでゆ”と“第2伊豆”。 1960年代初頭の首都圏を中心とした国内旅行は、1日目に修善寺や熱海を観光した後伊豆の温泉街へ泊まり、翌日日光東照宮や中禅寺湖へと向かうスタイルが人気の定番ルートでした。 そこに目を付けた当時の国鉄は、それまで非常に億劫とされていた東京・上野両駅での乗り換えが不要な行楽シーズン限定の臨時列車を設定する事とし、その大役に彼の有名な“日光型電車:157系”を抜擢します。 同車は当初冷房こそ未整備だったものの、その他はあの“151系:こだま型”にも引けを取らない車両で、全車座席指定の車内は連日観光客で満席という大盛況ぶりでした。 しかし、運転開始から僅か2年後の1963年3月改正で、東京~大阪間の臨時特急“ひびき”に急遽157系が転用される事となり、その煽りを受ける形で“湘南日光”は勿論それまで同じ運用で組まれていた“臨時いでゆ”や“第2伊豆”も、サービス面ではやや劣る165系へと置き換えられてしまいます。 思えば、これがこの列車達のその後の運命を決定付けたのかもしれません。 当該商品は、そんな同列車達が準急から急行へと格上げされた、1966年3月までの僅か3年間のみ使用されていた物です。 元来、153系や165系・475系等の捲り式ヘッドマークは、その材質と使用環境から表面の状態が非常に悪い物が多い事で知られていますが、そんな中これは何度も上書きした痕跡が見受けられ、恐らくこの手のヘッドマークの中では最も状態が良い物ではないでしょうか? 2003年7月に行われた高崎運転所一般公開の際には、実際に165系の先頭にも掲げられた至極の逸品です。 見るだけではなく、どうぞあの“バシャン、バシャン”と捲る音も併せて、あなたのお部屋でお楽しみ下さい!! |
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【説 明】 1996年3月16日、東海道本線の“ムーンライトながら”運行開始に伴い、それまで全国のムーンライトシリーズの先駆者であった初代“ムーンライト”が、誤乗防止の観点から列車名を新たに登場した“ムーンライトえちご”。 新宿~新潟・村上間を最短ルートで結んでいた同列車は、高崎線の上り始発列車の役割も兼ね備えていた為、18キッパーや通勤客にとっては欠かす事の出来ない存在でした。 しかし、閑散期の乗車率は概ね10%台と芳しくなく、2003年にはテコ入れとして165系から485系へと車両のグレードアップが行われたものの、やはり高速バスとの価格競争には勝つ事が出来ず、遂に2014年5月3日を最後に今日現在まで運転取り止めとなっています。 旅情溢れる東京や上野とは違い、通勤電車が慌ただしく行き来するホームからひっそりと発車する165系…。 新宿のビジネス街の灯りを窓辺にあの重々しいモーター音を耳にしながら眠りにつく旅も、今では味わう事が出来なくなってしまいました。 大人も学生も誰もが一度はお世話になったであろう、まさに青春の列車のヘッドマーク。あなたの思い出の形見代わりに、如何でしょうか? |